許しのかたち - 体験談集

組織風土が生んだ不信感:改革を経て経営者が見出した許しの形

Tags: 組織風土, 不信感, 改革, 経営, 許し, 心理, 再生

組織風土という見えない重荷と許しの葛藤

ビジネスにおけるトラブルや人間関係の困難は、時に特定の個人の悪意や過失によって引き起こされます。しかし、時には特定の個人を特定しにくい、あるいは特定の個人を許すだけでは根本的な解決にならない、より複雑な問題に直面することがあります。それは、組織全体に根付いた「風土」が原因で生じる問題です。

組織風土は、企業の理念、価値観、行動様式などが集合して生まれる、いわば空気のようなものです。この見えない「空気」が、時にハラスメントを助長したり、不正を隠蔽したり、従業員の心身に深刻な影響を与えたりすることがあります。そして、その風土の中で生じた問題の被害者、あるいはそれに無意識的に加担してしまった立場として、深い不信感や後悔、そして過去への怒りといった感情を抱えることがあります。

特に経営者という立場では、組織全体の責任を負う一方で、自身もまたその風土の中で影響を受け、あるいは課題を認識しつつも変革を阻まれてきた経験を持つことがあります。こうした複雑な状況下で生じた傷に対して、「許し」という感情や行動は、個人的な感情の整理だけでなく、組織の未来にも影響を及ぼす重要なテーマとなります。本稿では、架空の体験談を通じて、組織風土が原因で生じた不信感と向き合い、改革を経て許しに至った一人の経営者の内面とプロセスを探ります。

過度な競争主義が生んだ不信の連鎖

ある製造業の中小企業で、長年経営を担ってきたA氏は、深刻な組織の問題に直面していました。市場の変化に対応するため、数年前から導入した過度な成果主義とトップダウンの意思決定プロセスが、社内の人間関係を急速に悪化させていたのです。部署間の連携は失われ、互いを出し抜こうとする風潮が蔓延しました。目標達成のためには多少の無理や、ルールぎりぎりの行為も黙認されるようになり、結果として複数のコンプライアンス違反や、従業員のメンタルヘルス不調による休職者が後を絶たない状況が生まれました。

A氏自身も、当初は改革の必要性を感じつつも、目先の業績向上を優先し、厳しい指導を行う一部の幹部を黙認していました。しかし、問題が深刻化し、優秀な人材が次々と離職する状況を見て、組織風土そのものに根本的な課題があることを痛感します。

大規模な組織改革に着手したA氏は、まず経営層の意識改革、風通しの良い組織文化の醸成、ハラスメント撲滅に向けた具体的な施策などを打ち出しました。改革は困難を極め、一部の抵抗勢力との対立も生じました。そのプロセスの中で、A氏は過去に組織内で起きた様々な問題の報告を受けるたびに、深い自責の念と、問題を生み出した風土、そしてその風土を助長した一部の幹部や自身の過去の判断に対する複雑な感情を抱きました。

特に苦しんだのは、表面的な謝罪や責任転嫁をする者、あるいは自身は悪くないと信じている者たちの存在でした。彼ら一人ひとりを糾弾することは可能かもしれません。しかし、問題は特定の個人だけでなく、組織全体の構造と価値観が生み出した側面が大きいことを理解していたA氏は、個人的な怒りや失望といった感情と、組織の再生という理性的な目標の間で深く葛藤しました。

「なぜ、もっと早く気づけなかったのか」「なぜ、あの時、もっと厳しく対応しなかったのか」といった過去への後悔に加え、「あの時、私に不利益をもたらした人たちを、どうすれば許せるのか」という問いがA氏の心に重くのしかかりました。改革は順調に進み始めていましたが、A氏自身の内面は、過去の不信感と怒りに囚われたままでした。

A氏は、まず過去の出来事を客観的に分析することから始めました。何が問題の本質だったのか、どのような構造がそれを生み出したのか、自分自身の責任範囲はどこまでか。事実と感情を切り離す作業は容易ではありませんでしたが、問題発生に至る多層的な要因を理解することで、特定の個人への怒りだけでなく、より広範なシステムや環境への視点を持つことができるようになりました。

次に、過去の感情を認め、受け入れるプロセスを進めました。怒り、失望、後悔といった感情は、問題を深刻に受け止めた結果として自然に生じるものです。これらの感情を否定せず、「そういう感情を抱いている自分」を認め、それらが持つ意味を考えました。そして、それらの感情を、過去への執着ではなく、未来の組織作りのためのエネルギーに変えられないか、と考えるようになりました。

特定の個人に対する「許し」についても、捉え方を変えました。それは、過去の行為を正当化したり、責任を免除したりすることではない、とA氏は理解しました。むしろ、相手の行為によって生じた自分自身の心の傷を、過去の出来事の一部として位置づけ、それ以上自分を苦しめないように手放す試みであると考えるようになりました。特定の個人への怒りや不信感を抱え続けることは、改革を進める上で必要な前向きなエネルギーを消耗させるだけだと気づいたのです。

最終的にA氏は、過去の組織風土やそこから生じた問題、そしてそれに深く関わった人々に対する「許し」を、一種の「区切り」として位置づけました。それは、過去を水に流すことではなく、過去の経験から学びを得て、それを未来の組織づくりに活かすための心の転換でした。過去の出来事や不信感は消えるわけではありませんが、それらに囚われて感情的なエネルギーを奪われる状態から脱却し、より建設的な思考へと移行することを意味しました。

許しがもたらした組織と自身の再生

組織風土改革が進み、社内の雰囲気や従業員の意識が目に見えて変化するにつれて、A氏の内面にも変化が訪れました。過去の不信感や怒りから完全に解放されたわけではありませんでしたが、それらの感情に振り回されることが格段に減りました。

過去の出来事を客観視し、多角的な要因を理解したことで、特定の個人を一方的に断罪するのではなく、複雑な人間関係や組織構造の中で生じた問題として捉えることができるようになりました。これは、今後の組織運営において、問題が発生した場合に個人攻撃に終始せず、より根本的な原因や構造的な課題に目を向ける視点をA氏にもたらしました。

また、過去の感情を受け入れ、「区切り」をつけることができたことで、A氏は精神的な負担から解放され、より前向きに組織の未来を考えるエネルギーを得ることができました。許しは、過去の傷を乗り越え、自己の感情を健全に処理する上で不可欠なプロセスであったと実感しています。それは、単なる個人的な感情の解放にとどまらず、リーダーとして組織を牽引していく上で必要な「心の再生」でした。

さらに、過去の風土の中で生じた問題に関与した一部の幹部や従業員に対する見方も変化しました。彼らの行為を容認するわけではありませんが、その行為がどのような組織構造や価値観の下で生じたのかを理解したことで、彼らに対する一方的な怒りや断罪といった感情が和らぎました。これは、再出発を図る組織の中で、過去の過ちを繰り返さないための建設的な対話や、必要に応じた個別の支援を行う上でも重要な心の準備となりました。

許しは、過去の出来事に対する「和解」や「忘却」を強制するものではありません。むしろ、過去の事実やそれによって生じた感情を認識しつつも、それらに感情的に囚われ続けることから解放され、自身の心の平穏と、未来への一歩を踏み出すことを可能にする、内面的な営みであると言えるでしょう。

まとめ:複雑な問題における許しの意味

組織風土に起因するような複雑な問題における許しは、特定の個人への許しとは異なる側面を持ちます。それは、見えにくい構造や集団心理、あるいは自身の過去の関与も含めた多層的な課題と向き合うプロセスです。

このような状況での許しは、単に被害感情を手放すだけでなく、過去の出来事を客観的に分析し、感情を受け入れ、そして未来への糧とするための内面的な取り組みと言えます。それは、過去の加害行為を正当化することでも、責任を曖昧にすることでもありません。むしろ、過去の出来事から学びを得て、自身と組織の未来をより良くするための、理性と感情が織りなす心の営みです。

ビジネスの世界で、組織風土のような根深い問題から生じる不信感や傷は避けがたい場合があります。しかし、それらの困難な経験と向き合い、許しという形で内面的な整理をつけることは、リーダー自身の再生と、組織の真の変革のために不可欠なプロセスであると言えるでしょう。許しを通じて、私たちは過去の重荷から解放され、より強靭で、より人間的な組織を築いていくための一歩を踏み出すことができるのです。